信濃の国

ゲゲゲのゲンさん

2012年02月07日 16:16

2月7日(火) 2日連続雨天候。

松本市が2月議会に提出する補正予算案を発表したそうだ。

今季J2に参戦する松本山雅への増資額1000万円を盛り込み総額2000万円。

松本市も本腰を入れて 頑張るつもりだね・・・おいらも頑張るゾ!!


一方 我らが好敵手 長野パルセイロにも吉兆が・・・?!

鷲沢長野市長は昨日の記者会見で、

「ホームスタジアムである南長野運動公園総合球技場の整備について、

 2015年度に完成させ、16年シーズンから使用としたい」

と施設の改修方針を明らかにした。


とはいっても

長野県で1番強いサッカーチームにしては 

いささか 

のんびりしているのではないだろうか?!!

J2で 信州ダービーを 実現したいじ!!

共に 駆け上がろう!!


昨年12月に 天皇杯で富山に行った際

花バス観光バス社内で 『クラシコ!!』を見ていた。

松本と長野の 熾烈な争いの歴史が 1部放映されていた。

 なんで仲が悪いのか・・・

  何でそんなに対抗心を燃やすのか・・・

長野県と筑摩県の歴史にまで 遡ってみる必要があるらしい。。。



教えて!gooのQ&Aコーナーに 

博識なる回答者deadlineさんのベストアンサーが

とっても参考になりましたので、転載致します。

以下、転載文

私は、高校まで松本市に住んでいました。(現在、東京在住)
その頃からのイメージからすると、どちらかというと、長野市の方が、『県庁所在地を手放さない』というイメージがあります。南北に長い『長野県』で、『長野市』に『県庁』が存在すると、中南信地区(特に、『伊那市』・『飯田市』・『木曽郡』)から、県庁に行くのに、20年ほど前は2~3時間もかかりました。(どう考えても、松本市に県庁がある方が、長野県内全域からみると、便利だと思いますが・・・)

さて、『長野 VS 松本』の始まりは、『明治維新』当時の『明治新政府』の地域分けから始まります。

1.『明治維新』により、『徳川幕府』の領地を『新政府』が没収するにあたり、『信濃国』の領地を『伊那県』という新しい行政機構に統制させました。

2.しかし、その広大で分散した領地の不便さから明治3年、『伊那県』から『中野県』を分離させ、北東信の幕府領を担当させました。

3.翌4年、名称だけ『中野県』から『長野県』へ変更し、
 同年、廃藩置県により『松代県』(旧松代藩)、『須坂県』(須坂藩)、『飯山県』(飯山藩)、『岩村田県』(岩村田藩)、『小諸県』(小諸藩)、『上田県』(上田藩)は『長野県』に合併され、
 
『松本県』(松本藩)、『飯田県』(飯田藩)、『高遠県』(高遠藩)、『高島県』(高島藩)は『伊那県』に合併され、『筑摩県』となりました。

(『長野県』(県庁は長野市)と『筑摩県』(県庁は現松本市(当時は筑摩郡松本)の2県が現在の『長野県』を分割統治することとなったわけです。)

4.明治9年『筑摩県』に含まれていた『飛騨高山』地方が分離して『岐阜県』に併合され、更に、『筑摩県』そのものも『長野県』と合併し、現在の『長野県』が誕生しました。

この時に、既に、「新『長野県』の県庁を『長野市』に置くか、『松本市』に置くか」で『長野 VS 松本』が始まっていますが、

その後も、『県庁』までの交通の不便さ等を理由に、『松本市』、『諏訪市』、『伊那市』を中心とする『中南信』地区の『分離運動』がずっと燻り続け、

第二次世界大戦後、『日本国憲法』と『地方自治法』に基づく新しい『地方制度』に移行したばかりの昭和23年(1948年)春の『県議会』で『中南信地区分離』が議題となりました。

当然,分離賛成派の中南信選出議員と反対派の東北信(長選出の議員との間で紛糾し、年度末から新年度当初にかけての議会は麻痺しました。

まあ、そういった歴史があるわけですが・・・

「県庁を取られた」

は、交通の便等を考えると、『松本市』にある方が便利なわけですし、
元々、旧『信濃国』の『国府』は、平安時代には現『上田市』に置かれ、その後、現『諏訪市』に移転、戦国時代以降は、現『松本市』と移転していますから、松本市民にとっては、『信濃国』=『長野県』の中心は『松本』という意識が強いのだと思います。


・・・・ん~・・・なるほどぉ~・・・・

幼稚園の頃より今日に至るまで なんとなくライバル意識が強いなぁ程度でしたが

こんな時代背景が あったなんて ビックリですよ!!

『松本山雅FC 観客2万人を目指すブログ』 さんで

新チャントとして 信濃の国 を歌おう!!との提案がありました。

ぜひ 歌おう!!

県歌があるなんて いいんじゃない!!




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