2月7日(火) 2日連続雨天候。
松本市が2月議会に提出する補正予算案を発表したそうだ。
今季J2に参戦する
松本山雅への増資額1000万円を盛り込み総額2000万円。
松本市も本腰を入れて 頑張るつもりだね・・・おいらも頑張るゾ!!
一方 我らが好敵手
長野パルセイロにも吉兆が・・・?!
鷲沢長野市長は昨日の記者会見で、
「ホームスタジアムである南長野運動公園総合球技場の整備について、
2015年度に完成させ、16年シーズンから使用としたい」
と施設の改修方針を明らかにした。
とはいっても
長野県で1番強いサッカーチームにしては
いささか
のんびりしているのではないだろうか?!!
J2で 信州ダービーを 実現したいじ!!
共に 駆け上がろう!!
昨年12月に 天皇杯で富山に行った際
花バス観光バス社内で
『クラシコ!!』を見ていた。
松本と長野の 熾烈な争いの歴史が 1部放映されていた。
なんで仲が悪いのか・・・
何でそんなに対抗心を燃やすのか・・・
長野県と筑摩県の歴史にまで 遡ってみる必要があるらしい。。。
教えて!gooのQ&Aコーナーに
博識なる回答者deadlineさんのベストアンサーが
とっても参考になりましたので、転載致します。
以下、転載文
私は、高校まで松本市に住んでいました。(現在、東京在住)
その頃からのイメージからすると、どちらかというと、長野市の方が、『県庁所在地を手放さない』というイメージがあります。南北に長い『長野県』で、『長野市』に『県庁』が存在すると、中南信地区(特に、『伊那市』・『飯田市』・『木曽郡』)から、県庁に行くのに、20年ほど前は2~3時間もかかりました。(どう考えても、松本市に県庁がある方が、長野県内全域からみると、便利だと思いますが・・・)
さて、『長野 VS 松本』の始まりは、『明治維新』当時の
『明治新政府』の地域分けから始まります。
1.『明治維新』により、『徳川幕府』の領地を『新政府』が没収するにあたり、『信濃国』の領地を『伊那県』という新しい行政機構に統制させました。
2.しかし、その広大で分散した領地の不便さから明治3年、『伊那県』から『中野県』を分離させ、北東信の幕府領を担当させました。
3.翌4年、
名称だけ『中野県』から『長野県』へ変更し、
同年、廃藩置県により『松代県』(旧松代藩)、『須坂県』(須坂藩)、『飯山県』(飯山藩)、『岩村田県』(岩村田藩)、『小諸県』(小諸藩)、『上田県』(上田藩)は『長野県』に合併され、
『松本県』(松本藩)、『飯田県』(飯田藩)、『高遠県』(高遠藩)、『高島県』(高島藩)は
『伊那県』に合併され、『筑摩県』となりました。
(『長野県』(県庁は長野市)と『筑摩県』(県庁は現松本市(当時は筑摩郡松本)の2県が現在の
『長野県』を分割統治することとなったわけです。)
4.明治9年『筑摩県』に含まれていた『飛騨高山』地方が分離して『岐阜県』に併合され、更に、『筑摩県』そのものも『長野県』と合併し、現在の『長野県』が誕生しました。
この時に、既に、「新『長野県』の県庁を『長野市』に置くか、『松本市』に置くか」で『長野 VS 松本』が始まっていますが、
その後も、『県庁』までの交通の不便さ等を理由に、『松本市』、『諏訪市』、『伊那市』を中心とする『中南信』地区の『分離運動』がずっと燻り続け、
第二次世界大戦後、『日本国憲法』と『地方自治法』に基づく新しい『地方制度』に移行したばかりの昭和23年(1948年)春の『県議会』で『中南信地区分離』が議題となりました。
当然,分離賛成派の中南信選出議員と反対派の東北信(長選出の議員との間で紛糾し、年度末から新年度当初にかけての議会は麻痺しました。
まあ、そういった歴史があるわけですが・・・
「県庁を取られた」
は、交通の便等を考えると、『松本市』にある方が便利なわけですし、
元々、旧『信濃国』の『国府』は、平安時代には現『上田市』に置かれ、その後、現『諏訪市』に移転、戦国時代以降は、現『松本市』と移転していますから、松本市民にとっては、『信濃国』=『長野県』の中心は『松本』という意識が強いのだと思います。
・・・・ん~・・・なるほどぉ~・・・・
幼稚園の頃より今日に至るまで なんとなくライバル意識が強いなぁ程度でしたが
こんな時代背景が あったなんて ビックリですよ!!
『松本山雅FC 観客2万人を目指すブログ』 さんで
新チャントとして
信濃の国 を歌おう!!との提案がありました。
ぜひ 歌おう!!
県歌があるなんて いいんじゃない!!