写真=旧陸軍伊那飛行場跡に残る飛行機格納庫の土台コンクリート遺構
コンクリノカタマリガナンデココニ・・・・
何の変哲もない住宅街の一辺にある物体・・・
ここは伊那市上の原地籍
戦争の残骸とも言うべき、建造物の一角。
JA上伊那るーらるNETより抜粋
伊那市伊那部、上の原保育園南側の道を西に50メートルほど進んだ低い土手の上に、旧陸軍伊那飛行場の説明板と飛行機格納庫の土台コンクリートの遺構があります。
住宅地と背中合わせになっている土台コンクリート遺構は、高さが約1メートル20センチ、幅が約25センチ、長さが約80メートルあり、どっしりと重量感のあるコンクリートの塊が残っています。
飛行場は標高約650メートルから700メートルの場所で、南北約2キロから2.5キロ、東西約0.6キロから0.8キロ、面積約150ヘクタールという広大な広さをもっていました。正式名称は「熊谷陸軍飛行学校伊那分教場」(後に各務原陸軍航空廠伊那出張所)といい、主に訓練用飛行場として使われました。
伊那市教育委員会によって立てられた説明板には、説明書きとともに飛行場の復元図や戦後米軍によって撮られた航空写真、当時の格納庫のスケッチなどがあります。
この飛行場は、1943年(昭和18)、高台の畑や林を旧陸軍が接収し、上伊那各地の住民や南信をはじめとする旧制中学などの学徒、朝鮮人労働者によって二つの沢を埋めるなどの大規な工事の末、約1年で作られました。内陸部のため見つかりにくく空襲を避けられることなどが選定の理由だといわれています。
1944年には飛行学校が開所。翌年2月に各務原航空工廠の戦闘機製造工場になるまで、4回訓練生を送り出しました。なかには特攻隊員になる人もいたといいます。同年8月の敗戦にともない、米軍により廃止となりました。戦争を再び繰り返さないためにも、戦争の歴史や遺構を平和と共に後世に伝えていきたいものです。・・・・・・と記事が載っておりました。
実際今現場にいるところが、ここなんですね。ここら近辺を徒歩散策していたら発見してしまいました。地元現地人は、郷土の時間で勉強し、見学体験しているのであまり珍しくないようですが、松本育ちの舶来人の私には目に余る光景でしたので、聞き込み調査を致したしだいです。(10時の一服時間にですよ・・・フフフ)
このレンガ倉庫、近所の久保田さんちの物置小屋なんですが、実はその当時弾薬庫に使われていたそうなんです。コンナモノモコンナトコニ・・・・・
コレハナンダロウ・・・・
コノジュウリョウカンハ
第222代大関 小錦さんそのものではないか?と思わせる重量感がある。
いや~、こ、これは造成工事の床掘り中に出土した歴史構造物らしい。
『こ、これは・・・・?!』
『もしや、工事中止???』
『な~んだ、ただの産廃が埋まってただけかぁ~~~~』と高をくくっていたら、近所のおっちゃんが来て、『久保田先生に知らせといでや~』って。
『えっ、工事中止ぃ~~~???』
先述の弾薬庫の久保田さん、これらの戦争の歴史や遺構の研究家だそうで、写真に収めたいとの事だそうです。な~んだそれなら・・・
ここで問題なのが、どう処理するかです。
コンクリート体積はL2.0×B0.9×H0.9×4基=6.5m3もある無筋コンクリートを処理しようとすると、破砕処理だけでも6.5×2500円=16200円掛かりますし、積み込んで、運搬すると+α掛かってしまうので、伊那市教育委員会に相談したら、『ちょっと待ってて!』と2週間が経ち、市での写真検収があるからとまた待たされその後は宅地売主さんの責任払いだそうでと、スッタモンダシタモンダ!!
教育委員会さんは、歴史的構造物には違いないがこんな巨大な物を室内で保管できないし・・・・・ということで、あとは知らん(怒)
先日、長野市青年会議所主催の国際交流フェスタで撮影した、KONISHIKIさんと奥さんです。
大関時代よりは大分ダイエットしたようですが、体も存在感も大分でかいなあ。奥さんがとってもきれいですし、ハワイアンダンスも美しくて見とれてしまいました。